タロットアートで世界を探求する セレスティアルスペース

ちょっと思っていたこと

ちょっと思っていたこと
画像はプロフィール画像などに使用してたものです。

oil on canvas
サイズ F10号
Title『アロマティック・メモリー』




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さて、最近なんとなく思っていたことを

日記帳に綴ってみます。

・・・ってここは日記帳だったのかよ!




なんとなく、ぬぼ~っと考えていたのですが、

何でキリスト教は原罪論を前提としているのか?



私は一般仏教なのでキリスト教徒ではないのですが

ゆえに傍から見ていて何で原罪なん? っていう疑問がずーっとあった気がします。


何で? ねえ何で?

と例えばウチの親に尋ねたところで仏教のことさえよく知らない人たちなので知るはずないし、と思うと尋ねる気にさえならず

他人にそういう宗教絡みの事を尋ねる気にもならず



何よりキリスト教の教えについて知ろうという気にもならなかったので

わりと放置モードだったのですよ。



キリスト教の教え知ろうと思わなかったのは

それを理解する為にはおそらく量的に膨大過ぎて

一生涯かけても自分のCPUとメモリ性能では到底追い付かないだろうとなんとなく直観していたので最初から避けてたわけですね。


そして多分、それは当たっていると思う。


ちょっとだけやってみれば?と思われるかもしれませんが

一旦入り込んだらおそらく抜け出せない

何となくそんな気がこれまた直観的にあるんですよね。

なので最初からキリスト教の方は多いに学ばれると良いと思いますが

部外者にはかなりハードルが高い領域と感じてます。




でも、でも、何で原罪なん?

気になる。

とまあそんな感じです。



キリストが亡くなった経緯をチラっとネットで調べると

某サイトによるとユダヤ教の偉い人にキリストが逆らったので

偉い人たちが民衆を巻き込み

磔にしてしまえと訴えていたことがその経緯とか。


意外と当時の民衆が

それを許容している状況があったということで

私的には実に意外、え?ってなったんですよね。

キリストはいい人のはずなのに、磔にされるのを皆が「やれば?」って思ってたということですね。


結局、キリストは磔にされてしまうわけですが

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしてるか自分でわからないのです。」

という言葉を残されたとのことです。


拙い理解を書いちゃって申し訳ないけど

ここで原罪の意味が少しわかった気がするんですよね。



これ、単に人間は罪深い生き物だ だけでは到底伝わらないですね。




日本の戦後民主主義教育を受けた身としては

散々、戦争はダメだ、日本は世界に対して大変な罪を犯したのだ

という教育を受けて育ってきたので

全体主義的なものに対する嫌悪を示すよう促され続けているわけですよ。


私の場合のスペシフィックな刷り込まれ方をついでにいうと、全体主義ダメ!ナチス最悪!というポージングを学んだというよりは

「全体主義的な、一括りにまとめようとする構図」が刷り込まれたせいか、

というか受肉レベルで刷り込まれてしまったせいか、

その相似形みたいなものすべてがことごとく見えてしまい、見えるとビクっと反応するマインドセットがなされてしまったみたいで

その都度「まとまり」「組織」などに対する負の側面、つまり全体主義的なものに対する罪悪感を感じるようになってしまったわけです。


そういう意味では実に感度が高かったというか

戦後民主主義教育が刷り込もうとしていた核、エッセンスのような部分を見事に吸い込んでしまったわけですね。


私の青春を返して って感じです。まあ、さすがに今更いらんけど。



で、何が言いたいかというと

原罪、の意味です。


キリストを磔に追いやった民衆の愚、

これですね。


人はまとまって行動すると

まともな判断力を失うよ、という点です。

全体主義的な動きの愚かしさを支える一人になってしまうよ、という点です。

ただ悲しいかな、人は愚かであるがゆえに

この全体主義、集団の心地良さからもたらされる残虐性からは逃れられない、だから原罪として戒める意味でキリスト教徒に背負わせているということに他ならないのではないだろうか。



日本の戦後民主主義教育はGHQによってなされたわけですが

キリスト教徒ではないにも関わらず私は見事に

下手するとこれ、トラウマとして植え付けられたんじゃね?

という位、「原罪」を背負わされてしまったのではないだろうか。



実はこの日本における戦後民主主義教育というのは

日本人に「原罪」を背負わせるという実にキリスト教思想的な教育がなされていた、といえるのではないだろうか。


昨今の拝金主義を眺める限り、てっきりユダヤ思想が蔓延しているのかと思っていたけれど、
義務教育でしっかりキリスト教思想も刷り込まれていたんですね。

形式神道と形式仏教に隠されてわかりづらいけど

マインドセットはしっかり欧米に持っていかれてしまったといえるのかもしれない。

やはり日本思想は敗戦で終わったんですね。悲しいけど。



日本思想は終わらされた上に

"せっかく"植え付けていただいた原罪も肝心なところではあまり機能しておらず

今でも集団による狂気は繰り返されていますよね。

メディアに煽られて"ブーム"を起こされるとカンタンにその集団の狂気に陥ってしまう。

個別の例挙げるのメンドくさいのでここでは割愛しますけど。

ブームのみならず、イジメもその類ですね。

イジメは楽しいんだと思うよ。集団でいたぶるから特に。まさに狂気。

狂気にストップをかける1ミリ程度の理性をもかき消してしまう快楽があるってことですね。

おそらく昔の村八分とはちょっと質が違うんですよね、見ていると。




さて、同じくキリスト教のロシア正教についてみてみると

原罪についての定義はなされていない、的な記述がみられたので

「原罪という楔を打ち込んでまず汚す、傷つける」ことから始めるやり方とは異なっているんだろうなと思う次第。

そしてロシア人は集団的、であるともいわれる。本来の自然な有り方に近いのだろうな。

人間本来の精神性を維持する環境がまだあるのでしょうね。欧米の影響を必要最小限に抑えることが可能な国家体制があるし。




さて、ちょっと雑なまとめになるけど

トランスヒューマンで超・人類を目指すより

教育や薬物などを使ってまず最初に楔を打ち込み傷を入れ、人間の能力低下を促す前に

そのやり方を極力取り除いて人間本来の姿のまま、その可能性に目を向ける在り方を

神様は真に望んでおられるであろうことは間違いない、と

私は確信している。










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