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歴史あるもの

久々の投稿になってしまいました。

少し動き回る事が多くなっていたのでまったく余裕が無く。
しばらくはこんな感じでなかなか投稿できないかもしれませんが
意識の片隅には投稿意欲はあるので
ちょくちょくそれを発動して書くようにしたいと思ってます。

画像は卵テンペラという技法を使って
カラヴァッジオの部分模写をするお教室で描いたものです。未完成ですが。
時間がもう少しあるとよかったかな、といった所感ですが
引き続き、もう少し書き足していきます。

卵テンペラという古典技法でカラヴァッジオを描くということで
思いっきり、古いもの同士を掛け合わせた世界になりますが
古い作品や技法に触れると
何というか、ちょっとした郷愁のようなものが
いつも体のどこかに電流のように流れているというか
描いている間もずっと、
そんな何かを懐かしむかのような気分にさせられます。

昨今のデジタルアートでは
オリジナルとコピーの価値が等価になるというひとつの問題がありますが
従来のアナログ制作では
オリジナルとコピーはやはり異なるものとして存在していますので
アナログでの制作は一応、その立ち位置をまだ確保できているといった状況なのではないでしょうか。

そのせいか、最近は過去のアナログ作品全てに対して
何か特別な敬意のようなものを覚えるようになってきてしまって
古ければいいってもんじゃないのは確かですが
でもやはり身体と感覚が連動してアウトプットされるその技量の発露であるアナログ作品は
格別の味わいがあるのだなと、
デジタル系にばかり意識が向きがちな昨今だからこそ
そんな風に思うようになりました。

そして何より、

新旧を感じ取ることの素晴らしさっていうものがあるのではないだろうか

と考えるに至りました。

どういうことかというと
オリジナルとコピーが等価で差が無いということは
そこに新旧の差も無いわけですし
そこに時間的経緯も存在しないですし(コピーした日時があるだけだし)
これ即ち、見る人の感覚を刺激する要素が少ないということになります。

それと比較すると
オリジナル作品は実際にそれが制作された時を刻んでいるので
より存在の重みが増して鑑賞意欲を掻き立てるものであるといえます。
その当時にあった絵の具は今ほど多くなくて
それゆえ作品の表現にもその影響があって
結果的にその時代や地域特性を映し出した作風が生まれてきて
それゆえのオリジナルの価値が発生してくるという流れ。

デジタルだとそのような差異が存在しなくなるので
そういう意味ではどちらがより豊かであるかは測りかねてしまいますね。
時代が進めば進むほど、テクノロジーが進化すればするほど
より豊かで豊饒な世界の住人になれるのか、というと
実は精神自体はむしろ貧困になっているだけのような
そんな気持ちにさせられてしまうのは何故なのでしょうか。

自然発生的に生まれてくる豊饒な差異に比べて
テクノロジーによって生み出される規定の枠組み内限定の差異は
精神の劣化を加速させているだけのようにさえ見えてきます。

精神性はむしろ劣化して
よりマシン一体型の予定調和チックなマインドを搭載した
ロボット系スピリットが時代の変化と共により先鋭化しつつあるだけ
そんな印象を受ける昨今ではあります。

AIによるシンギュラリティが懸念されていたりしますが
AIが人間に近づくというより
人間がロボットに近づく事でその時は意外と早く訪れる可能性さえあるのではないでしょうか。
人間がなぜか人間の特性を奪われ続けて
というか自らそれらを差し出し続けることで
精神と魂を日々増々鈍化させて
神の領域から自ら後ずさりして遠のいている状況は何とも愚かしい姿ではあるような気が。

自分自身が結局、古いものに反応して
そちらに回帰する一方なのでより、そんな風に思ってしまうのかもしれないですが。

卵テンペラなんて油彩以前の一番古い技法だし
そういえばタロットも発祥がはっきりしないくらい古い世界だし。

もちろん現在の技術のお陰で可能になっている事は沢山あれど
素晴らしい技術に感謝したいからこそ
精神や魂といった神的領域を侵す技術はマッドサイエンスとして遠ざけたいという心境ではあります。

古いものに郷愁を覚えたり
先祖に思いを馳せたり感謝を捧げるなど
ごく当然の感性を思い起こす為には
古いもの、当時の人々の精神に思いを馳せることはとても感性を刺激するよい機会になりそうです。
長く育まれた歴史や習慣を根こそぎ奪われつつある現在だからこそ
古典を見直してそれらと共に歩みたくなるのは
人間回帰という直観的欲求に突き動かされているからかもしれません。

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