全国的に映画館で『午前十時の映画祭14』というのをやっていると知り、ちょうど上映中なのがあの超有名なイタリア映画『ひまわり』だったのでせっかくの機会ということで観に行ってきました。
正直、有名映画なのでストーリーはとっくの昔に知っていて、曲もすごく素敵なのにあまりにも有名すぎてもう特段の感動もない、という状態だったのであまり感動もしないだろうなと思いつつ映画館に足を運んでみたのですよ。『午前十時の映画祭14』と言いながら午前9時始まりだったので電車とバス乗り継ぐため朝いちばんのバスに乗り込んで必死に開演に間に合わせたのですよ。バスと電車の本数が少ないんですよね地方だと。ちょっと隣町に行くのにそこそこ必死という。おかげで寒さもそこまで感じることなくなんとか無事上映時間に間に合いましたとさ。めでたし、めでたし。
んが、しかし、ここからが映画の始まりです。この日はうっかり耳栓を忘れてきてしまい、やたら大きい音響が耳に響いて辛い。仕方なくティッシュを取り出し丸めて耳に詰め込み、さらに耳の上から手で押さえてようやく何とか鑑賞スタイルが完成しました。
納得のいく鑑賞スタイル(?)でこの映画を観ていると、いわゆる定番スタイルの、最初は幸せ絶頂の二人を描くハイテンションモード。このあたりはストーリー展開のための定番部品みたいなものなのでわかったから早いとこネクストステージに行かないかな~と思いつつ観ておりまして、時々時計を見たり時間気にしてる状況でございました。
主演の2人はいわずと知れたお二人なので割愛するけど、よく目にする画像だとソフィア・ローレンが怖い顔してるのですが、映画で見ると本当に魅力ある素敵な女優さんで、骨太感というか存在感がとにかく凄い。こういうどストレートに描ききるべき悲恋物語はやはり個々の心情でもって押し切っていかなければならないのだろうけど、そういう役割には打ってつけの女優さんですね。イタリア映画もオーソドックスな物語に生々しい生命力を注ぎ込んで成立させるのが本当に上手い。技巧ではなく、力強い強引さ。そこで語りきってしまえる良い意味での荒業。考え過ぎない方が伝わる事ってたくさんありますもんね。この映画は繊細な心情を強引さで成立させるという相反する要素を意図せず使いこなしている印象。ロシアとイタリアを舞台とした物語のある種のダイナミズムで揺さぶられつつ、登場人物の心の機微を感じ取りつつ、フワフワした適当な理由づけによるものとは異なったリアリティのある各人物の思いを受け止め続けるという、観る者の体に響いてくるようなボディブロー系恋愛映画の名作、とでも評するべき作品だ。
だがしかし最近の私はラブシーン見るとなぜか「オエっ」「キモっ」ってなるので、ホルモンバランスって大事だなと、映画を鑑賞するにあたってホルモンの成せる技っていうのが実は相当重要なんじゃないかしらと思ったり。要は映画は若いうちに観とけってことですね。映画に限らないけですけど賞味期限ってのがやはりあるのだなと。
そんな今の私だからこの物語における極寒のロシアでイタリア兵が次々倒れていく姿を見て日本の映画『二百三高地』が思い浮かんだり、いわゆるシベリア抑留で飢えと寒さの中で死んでいったであろう日本兵に思いを馳せてしまって、ソフィア・ローレンの上等な演技が無かったら思いっきり違う方向に意識がぶっ飛んでいたに違いないと思うばかり。アントニオの「あの地で一度僕は死んだ」というセリフが妙に納得感を持って響いてきてしまったのでした。
ソフィア・ローレンの悲痛な思いに感情を重ねないとボディブロー度は1/2になってしまう。だがしかし、私は物語を知り過ぎてしまっていた・・・おまけにホルモンバランスが・・・
という多少の追い付いていけて無い感を抱きつつも、ひまわり畑の圧倒的な映像の力が私をきちんとソフィアの元へ連れ戻してくれる。ひまわり畑の下に眠る者たちへの思いばかりではなく、あれほどの奇跡的なひまわり畑を見せられると、自然の持つ癒しの力とひまわりが人間の悲しみに寄り添い、語り掛けるその無言の発信が身体の奥深くを鷲掴みにして強烈に揺さぶりをかけてくるのだ。人がどれほどの運命的翻弄に遭おうとも、ひまわりは誰一人見捨てない。その事が悲しみの中にしっかりと生きていることを思い知らされる圧倒的な映像。悲痛さをも抱ききってくれるこの上ない寛容さ。この映画が不朽の名作と評されるのは詰まるところひまわり畑の崇高なる救いのメッセージによるものなのかもしれない。
『午前十時の映画祭14』の『ひまわり』。年末年始のお休みに鑑賞はいかがですか。
アマプラでも見れるようなのでご興味のある方はどうぞ。
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