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『白痴』を読み返してみた

久しぶりにドストエフスキーの『白痴』を読み返してみた。

夏なので。

関係ない?

いや、夏は読書、とか若かりし頃に刷り込まれた気がするのですが気のせいか。

でも夏の読書は他の季節に比べてなぜかより色濃いドラマが頭の中で湧き踊る、そんな気がする。

最初に読んだあの頃、いつだったか二十歳位だったと思うけれどええ話やなあ、可哀そうやねえ、という記憶があるものの、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』と比べて強烈な印象を残すことも実は無かったのです。

なので今回じっくり読もうと思っていたら、なぜか細切れにバスや電車待つ時間などの隙間時間に読んでいたので、正直やはりものすごいドラマ仕立てでの展開には出会えなかったわけですが。

そうは言っても、やはりええ話やった。(気がする)

作者のドストエフスキーは「完全に美しい人を描く」という決意のもと、この『白痴』を描いたとのことで、完全に美しい人、とは一体誰のことなのかとても興味がそそられていたのですが、主人公の白痴(ばか)、ムイシュキン公爵のことなのだろうと思いつつ読み進めていたのでドストエフスキーが考える完全に美しい人とはこういう人なのか、と作者の想定を辿りつつ何となく納得しながら読んでいたのですね。

ただ、読み進めてもどこからどう考えても馬鹿というよりむしろもっともまとも?な事を口にする人物であり好青年だったので読み進めても不快な気分になる描写が無く、主人公を取り巻く周囲の人物たちのなんとも狂乱に満ちた激しやすい様の方がより狂気に満ちているようにしか見えず、自分が普段生きている現実世界を彷彿とさせるものがあったのは確かだ。いわゆる「まとも」とされる「良識ある世間さま」がどれほどトチ狂っているかを常日頃から見聞きしているせいか、ま、どこの世界も結局そのようなものなのだろうと、ムイシュキン公爵を取り巻く世界を読み進めながら妙な共感を覚えて物語と自分の住む世界を重ね合わせてしまってもいた。ドストエフスキーは脇を充実させるのが得意ということなのでその腕の良さがリアリティをもって立ち上がってきていた為かもしれない。

主人公のムイシュキン公爵が好青年であるという証として美女二人が彼を取り合うことになるという点が挙げられる。物語の最後にこの美女二人の直接対決に至るわけだがこの美女二人がムイシュキン公爵が「完全に美しい人」であることを物語る為に必要だったということに他ならない。公爵はナスターシャ・フィリポブナという美女とアグラーヤという美女に求愛され、その間を揺れ動くことになる。公爵の気持ちはアグラーヤを想いつつも結局、薄幸の可哀そうなナスターシャ・フィリポブナを見捨てることができなかったということだろうか。ナスターシャ・フィリポブナは公爵との結婚直前、公爵のもとを逃げ出して世俗の極みのようなロゴージンに助けを求め、世俗から逃れられない自身の心の声に従うかのように公爵から離れていく。が最終的にはロゴージンに刺殺されて亡くなってしまう。

これらの流れから何が読み取れるのだろう。

聖と俗が入れ替わり立ち替わり出現しては消え消えては現れ、そういう意味では目まぐるしい印象の残る物語でもある。光と闇と言い換えてもいいかもしれない。公爵が愛するアグラーヤ、その名には光という意味があるそうだ。公爵が求めるのはあくまでも光だったのだろう。でも本当に欲しいものさえ手にすることなく結局悲しみと闇を抱くナスターシャ・フィリポブナの元に留まらんとしたのはなぜだろう。勝手な解釈をするなら、この在り様が「美」という事なのではなかろうか・・・?

 結局彼は強烈な美貌と深すぎる闇を抱えたナスターシャ・フィリポブナを見捨てることができなかった。本当に美しい人であるがゆえに。心から求めるアグラーヤを失ってもなお、闇と悲しみを抱く者から離れる事ができなかったということではないだろうか。憐みから離れる事はできなかったのではなかろうか。

公爵はロゴージンに殺されたナスターシャ・フィリポブナの遺体とロゴージンと三人で恐ろしい通夜のような夜を過ごし、恐怖からかついには出会った人々の判別さえできなくなるほどの本当の白痴に舞い戻ってしまう。  「本当に美しい人」は常に世俗から場外へ放り出されてしまうものだ。これこそが現実と呼ばれるものに他ならない。悲しみを抱え震える者を見捨てない美しい人は世俗の論理に撥ねつけられる。『白痴』はまさにそのような物語だ。ただ読了した読者の中にはわかる者もいるはずだ。ナスターシャ・フィリポブナが一人寂しく逝ったのではなく、彼女に対する憐みを忘れない公爵が共に世俗から投げ出されたことで、身代わりに匹敵する救いをナスターシャ・フィリポブナの死に与えたであろうことを。その行為はまるでキリストさながらではなかろうか。つまり『本当に美しい人』を描くというドストエフスキーの意向はここで完成されたといえるのかもしれない。

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